2011年6月2日木曜日

働くと評価

 自分が会社をクビにならなくとも、会社そのものが跡形もなくなってしまうことがある。どんなに働きたくても、どんなに雇い続けたくても、それができない状況に突然陥ることがある。そばにいて当たり前だった家族が、一瞬にしていなくなることがある。

 会社のためよりも地域のため。仕事だけでなくボランティア。仕事よりも家族。それまでの価値観が変わったことを自覚した人もいれば、何だかモヤモヤした思いを抱き続けている人もいる。それくらい「3・11」はショッキングな出来事だったのである。

 そんな社員たちの微妙な価値観の変化に気づいたトップの嗅覚は、優れている、と捉えることもできるだろう。いやいや、ひょっとするとこの方自身が、将来に対する漠然とした不安に駆られ、社員たちの言動に過敏になっているだけなのかもしれない。

 仕事が収入のための手段であっても、何らおかしなことではない。だが、社員にはレイバー(労働力)として目の前の仕事をこなすのではなく、ビジネスをしてほしい。そう願ってやまないのがトップたちだ。

 「労働」ではなく、創意工夫を凝らしてより付加価値をもたらすビジネスをしてほしい。給料はそのために払っているんだ、と。

 当然、40代の社員たちはそんなことくらい理解していると思っていた。その40代までが「労働に徹しよう」と言うのか? そんな一抹の不安を震災以降に感じることが増えたそうだ。

 どんなにトップがけしかけようとも、下から見上げれば、それが「嘘」であることくらい分かる。会社は必ずしも公平じゃない。正論を言うことはあっても、誠実とは限らない。上が使いやすい人が上がる。自分は、ここで終わる。それは、早く見切りをつけた人ほど分かるのだ。

 しかも、よ〜く考えてみてほしいのだ。会社だって、「出世したがる人」だけを求めているわけではないはずだ。出世することも昇給することもなくても、毎日毎日、ほかの人があまりやりたがらない地味な仕事を続ける社員も必要としているはずである。

 会社は、一部のパフォーマンスの高い社員だけが支えているわけじゃない。出世したり昇給したりすることがなくとも、地味な仕事でも、ほかの人がやりたがらないような仕事でも、腹の底から真面目にやり続ける社員こそが、組織の土台を作っている。彼らこそが、「会社のため」に、「会社を背負って」働いているのではないだろうか。

 言い過ぎかもしれないけれど、むしろ、パフォーマンスの高い人の方が自分のために働いているんじゃないかと思ったりもする。「会社のため」ではなく、「自分のキャリア」のために。会社を背負うのではなく、自分のキャリアを積み重ねるために。

 自分たちはどういった人たちを評価してきたのか? 公平に扱ってきたのか? 誠実に評価したのか?

 企業のトップたちはこうしたことを自問して、反省すべきではないか。会社にとって必要なのは、出世したがる社員だけではないということを。パフォーマンスが高い社員だけを求めているわけじゃないということも。

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